心身問題とは、心と体の状態との間の関係を説明する問題である。[17] この分野で活躍する哲学者の目的のひとつは、(一般的に非物質的であると考えられている)心というものが、どうして物質的な肉体に影響を与えることができるのか、そしてまたその逆もどうして可能なのか、を説明することにある。
われわれの知覚経験は外界からどんな刺激が様々な感覚器にやって来るかに応じて決まる。つまりこれらの刺激が原因になって、われわれの心の状態に変化がもたらされ、最終的にはわれわれが快不快の感覚を感じることになる。例えば1枚のピザを食べたいと欲したひとは、欲しているものを得るために、それにふさわしい仕方でふさわしい方向に身を動かそうとするだろう。ところで、ただの電気化学的な特性をもっているにすぎない不活性な放射線のかたまりから、どうすれば意識経験が発生することができるのだろうか[9]。あるいはまた、あるひとの命題表明(propositional attitude)すなわち信念や願望は、どのようにしてその人のニューロンを刺激し、筋肉をただしい仕方で収縮させる原因になるのだろうか。こうした問いは、遅くともデカルトの時代から認識論者や心の哲学者たちが延々と検討してきた難問なのである[6]。
心身問題に対する二元論の回答 [編集]
二元論は心と物質の関係についてのひとつの考え方である。二元論の出発点には、心的現象とはある意味で非物理的なものだという要求がある[7]。心身二元論をもっとも早く定式化した現在知られている主張のひとつは東洋哲学にみられる。ヒンズー哲学のサーンキヤ学派やヨーガ学派(紀元前650年前後)では、世界をプルシャ(精神)とプラクルティ(物質的実体)の二つに分けている[5]。具体的には、パタンジャリが編纂した『ヨーガ・スートラ』が心の本性について分析的に論及している。
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西洋哲学で最も早い時期に二元論的な思想を展開したのはプラトンとアリストテレスの著作である。理屈は異なるが、両者とも人間の知性というものは物理的身体と同一ではありえないし、物理学的な用語で説明することもできないと主張している[1][2]。とはいえ、二元論として最もよく知られているのはデカルトのもの(1641年)だろう。デカルトによれば心には延長がないので、物質的な実体ではない[6]。デカルトは心が意識や自己認識と同一であると述べた最初のひとである。そして、心は脳とは異なるということも主張していた。従ってデカルトが史上初めて心身論を今日まで続いているような仕方で定式化したのである[6]。
二元論擁護論 [編集]
二元論を擁護する論証のうち最も大きなものは、哲学的なトレーニングを受けていない人々の大多数の人々の持つ常識的な直感にそれがアピールする、というものである。心とは何か、と問われて、平均的な人々なら通常、「心とは心理学的な自己のことだ」とか「パーソナリティ」のことだ」、「魂のことだ」と返事したり、他の類似の実在を挙げることだろう。心とは脳のことであるとか、反対に脳は心である、といった考えはほぼ確実に否定されることだろう。たった一つの存在論的な実在があると考えるのはあまりに機械論的で、理解しがたくさえ思われるからである[7]。しかし現代の心の哲学者の大半は、こういう直感的な考えはたぶん誤解を招くと考えている。われわれは自然科学から得られた経験的な証拠に拠りながら批判能力を発揮し、こうした仮説を検証して、それが正しい基礎にもとづいたものかどうかを明らかにすべきなのである[7]。
二元論を擁護する論証のうち主要な第二のものは、心の特性と物理的身体の特性はひどく異なっており、場合によっては両立しがたくさえあるように見える、ということである[18]。心的出来事はなんらかの主観的な特質を備えているが、物理的出来事はそうではない。従って、例えば指を火傷するとどんな感じがするかとか、青い空はどんな感じかとか、快い音楽を聴くとどう思うかなどと人に聞くことは理に適っているが、海馬側背部のグルタミン酸摂取が急増するとどんな感じがするか、などと聞くのは意味がないか、少なくとも奇妙である。
心の哲学は心的出来事の主観的側面をクオリア(あるいは生の感覚)と呼ぶ[18]。痛みを感じたり、澄み渡った青空を見たりするのはなんらかの出来事であろう。こうした心的な出来事にはクオリアが関わっており、物理的出来事には還元しがたいと思われる