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カルタゴを滅亡させたローマ

地味豊かで交易の要所でもあったカルタゴの故地には、カルタゴを滅亡させたローマによって新たな殖民市が造られた。最初の植民は紀元前122年に護民官ガイウス・センプロニウス・グラックスによって企画された。この計画はローマにおいてグラックスの進めていた改革の支持票を獲得するための人気取りの意味合いも強かった。この計画の結果コロニア・ユノニア(ユノ植民市)として新たな都市が造られたが、ローマでのグラックスの失脚に伴いその後大規模な植民が行なわれることはなかった。

2度目はガイウス・ユリウス・カエサルによって計画され、アウグストゥスによって実行された。ユリウス・カルタゴ植民市として再建された都市は、以降アフリカにおけるローマの最も重要な都市として位置付けられ、ローマ帝国の西方でローマに次ぐ第2の都市となった。ローマの再建した植民市は2度ともカルタゴとは異なった名がつけられたが常にカルタゴの名で呼ばれつづけた。

現在にまで残るカルタゴの遺跡のほとんどはこのローマ時代のものである。

近郊のタガステ(ティムガッド)出身のアウグスティヌスは青年期をカルタゴで過ごし弁論術を学んだ。クラウディウス帝は全8巻からなる「カルタゴ史」を書いたが、現在は散逸している。

ヴァンダルによる征服と東ローマ帝国による奪回 [編集]
5世紀、ヴァンダル族の王ガイセリックが、東ローマ帝国の将軍バシリスクス率いる海軍を破り、カルタゴを占領してこの地方にヴァンダル王国を建国。カルタゴはその首都となった。
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東ローマ帝国による奪回の試みは何度か失敗したのち、ようやく6世紀になって征服に成功した。ローマ帝国の復興を企図していた東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世は、533年に西ローマ帝国の皇女の血を引くヒルデリック王がその遠いいとこであるゲリメルによって廃位されたことを口実として、ベリサリウスを将軍とする軍隊を派遣した。ヴァンダル王国の軍隊はあっけなく敗北し、553年10月15日日曜日(9月14日という説もある)、東ローマ帝国軍は、カルタゴに入城した。略奪や虐殺は行わなかった。 こうしてカルタゴは再びローマ帝国の領土となったが、ムーア人の反乱が多発したため皇帝マウリキウスの時代に、カルタゴに総督府が置かれ、イタリア半島のラヴェンナ総督府と並んで、帝国の西方における重要拠点として組み込まれた。

610年、カルタゴ総督ヘラクレイオス(アルメニア人)の息子ヘラクレイオス(父子同名)は、時の皇帝フォカスを打倒し、自ら皇帝の座に就いている。 しかし、東ローマ帝国は、アラブ人の侵入を防ぐことができなかった。647年、ウマイヤ朝勢力がカルタゴを攻撃した。これは辛うじて退けたものの670年から683年にかけて、再び攻撃を受け、陥落した。698年には、アフリカ大陸にあった東ローマ帝国最後の拠点もウマイヤ朝が占領した。なお、イスラム勢力の占領したこの時期よりカルタゴの荒廃は進み、放棄された。

政治機構 [編集]
カルタゴの政体についての判明事項は極めて乏しい。最も有力な手掛かりは紀元前4世紀の哲学者アリストテレスの著作「政治学」の中の記述であり、それによると以下の3つの特徴を持つ。

クレタ、スパルタとカルタゴの政体は非常に似ていること
「王政」「貴族政」「民主政」の長所を併せ持っていること
実質的に「貴族政」「寡頭政」であること
個別の役職について、国家の代表は一般的にスフェス(sufet、通例複数形でsufets、司法権と行政権を持った長官)と呼ばれ、ローマのコンスル同様に1年任期であった。(語義はセム語の「ショフェト」(判事、裁判官の意)であり、ローマの史家はスフェスをレゲス(reges、王)と呼んだ)。

スフェスには軍事に関する権限はなかったが、司法と行政の権限を付与された1人か2人のスフェスが富豪や影響力をもった一族から選出された。また、軍事上の特別職として「将軍」がありハンニバルもこれに選ばれた。 また、貴族たちから選出された代議員によってローマの元老院に相当する機関である最高会議(元老院)を構成していた。最高会議は広範囲に渡る権限を有していたが、スフェスの選任が最高会議によるのか、市民総会(民会)によるかは論が分かれる。市民たちは立法権にも影響力を持っていたようであるが、このような民主主義的な要素はカルタゴを弱体化させたため、都市の統治では寡頭政治が堅持されることとなった。

フェニキア人は、子供を犠牲にして捧げ物にしていたことで有名である。プルタルコスは、テルトゥリアヌス、オロシウス、ディオドロス・シクロスなどと同様に、この風習を記録に残している。ティトゥス・リウィウスやポリュビオスは触れていない。

現代の考古学上の発掘から、プルタルコスの記述が正しかったことが明らかになった。トペテ(en)と呼ばれる生贄にされた子供のための共同墓地から20,000個の骨壷が出土し紀元前400年から紀元前200年の間のものと推定されている。 骨壷には、新生児の黒焦げになった骨が入っており、中には胎児や2歳ぐらいの幼児のものもあった。これは、赤ん坊が死産した場合、最も若い子供が両親によって生贄に供されたことを意味している(ただし、この風習はカルタゴの残虐性を喧伝するローマの捏造であり、トペテは疫病で死亡した幼児の葬祭所だった、とする説もある)。

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2009年03月19日 10:59に投稿されたエントリーのページです。

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