徳川 忠長(とくがわ ただなが)は、江戸時代初期の駿府城主である。江戸幕府第二代将軍・徳川秀忠の三男で、母は浅井長政の娘の江。兄に第三代将軍・徳川家光。正室は小幡藩主織田信良の長女・昌子(久姫)[1]。駿府藩主。幼名は国松(国千代)。北丸殿。極位極官が従二位権大納言で、領地が主に駿河国であった事から、通称は駿河大納言。誕生日は5月7日説(「徳川幕府家譜」)、6月1日説(「慶長見聞録案紙」)、12月3日説(「幕府祚胤伝」)など諸説がある。近年の研究では松平姓であったことが顕かにされている
江戸城に生まれる。乳母として朝倉局(土井利勝妹、朝倉宣正妻)が附けられたという。父の秀忠や母の江は、病弱であった兄・竹千代(家光)よりも容姿端麗な国松を寵愛していたとされ、世継争いがあったとする巷説が生まれた。(実際には忠長の方が兄家光より政治家の素質が強かったかららしい。)
元和年間には家光の世継が決定する。『甲斐国志』によれば、忠長は元和2年(あるいは元和4年1618年)9月に甲府藩23万8000石を拝領し、甲府城主となる。忠長には朝倉宣正や郡内地方を治めていた鳥居成次らが附家老となり家臣団が編成される(『武徳編年集成』による)。忠長家臣団には後に武田遺臣や大久保長安配下の代官衆らが加えられており、忠長自身が入甲することはなく実務は代官衆により行われている。
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元和6年(1620年)9月に家光とともに元服し、名を忠長と改める。元和9年(1623年)7月、家光の将軍宣下に際し、中納言に任官。寛永元年(1624年)7月には駿府城を与えられて転封し、55万石を領有する。寛永3年(1626年)、後水尾天皇の二条行幸の上洛にも随行する。
寛永8年(1631年)頃、辻斬りや家臣の手打、浅間神社で猿を狩るなどの行状が見られ、細川氏などの大名の間では、改易された松平忠輝や松平忠直のようになると風聞されている(『細川家史料』による)。将軍・家光からも注意され、大御所・秀忠は忠長の出仕を停止し、忠長は秀忠側近の崇伝らを介して赦免を乞うが、5月には甲府への蟄居を命じられる。秀忠の死後の寛永9年(1632年)、家光から駿河・甲斐両国を没収され、安藤重長に預けられる形で高崎(上野国)へ逼塞の処分が下される。翌年には高崎城で自害した。享年28。また、新倉や鳥居ら家臣団も処罰されている。